昭和49年08月20日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
昨日午後の奉仕をさせて頂いておる時に、親子五人ですね若い夫婦の方が小さい子供達を三人連れてお参りして、まだ生まれて四十日という、赤ん坊がここへこう寝せていましたが、足がこんな風になっているんです。手はこんな風になってるんですよ。ねじれてるんです。話を聞いたら生まれた時に、足がここにこうついとったそうです。それも手術して外してこうそれだけですけれども、それでもやっぱり足がこんな風になってる。
手は片一方の手が、こんなふうにねじれているんです。本当にそれを見せて頂いて、ほんとに悲しいですね。世の中には様々な難儀な人があると思うんです。丁度私が手紙が二三通来てました。その葉書を読ませて、この葉書をこう手にとって読ませて頂いておる時にここに来ました。それで私が申しました。これは神戸の和田という、原さんの姪にあたる方、善導寺の原さんの勿体島におられる。
病院に入院しておりました。大変難産でこりゃこのままでは、母体の方がもてないから、中の赤ん坊を切って出さなければならないというお届けがありました。それでそんな事をお医者さんが言われるとなら、もう連れて帰って来いと私が申しました。そして連れて帰って、うちで安産のおかげを頂いたんです。その子供が盆正月の日に、必ず手紙をよこすんです。「おかげを頂いて、今年は通知表に、五が三つもあった」と言う、お礼の葉書なんです。
是はどう言う事かというと、金光大神は形がのうなったら来てくれと言う所へ行ってやる、と言う事を確信する。確信しておらなければ出来る事ではない。そう思うというのではなくて直感する。いうなら是は病院で親子とも駄目だこんな事では。だから是はそんな事するごたるなら、もう純神様のおかげを頂かなければいけないと直感する。直感する事が、もうすぐ連れて帰って来いと言う事になってくる。あの時分はなんて言うですかね、単刀直入大変激しいお取次をさせて頂いておる時分で御座いましたからね。
昨日私はお道の新聞が参りましたから、読ませて頂いとりましたら。今度変わられた安田という教監の、本当にこれは私どもの願いとする、本当の意味においての全教一心、全教一家とか、教祖の信心に帰れとかと言われる。それを具体的に本当にそう言う事に一生懸命取り組んでおられる先生だな、教監だなと思う様な事が度々ございました。この前の新聞にもそれを感じて大変心強い思いが致しましたが。
今度の新聞にも只今議会があっております、議会の中で発言しておられる宮田先生の言うておられる事がです。もう今まで偉い先生方から聞いた事のない様な事が書いてあり、今私が申しました様な事が書いてあった。そこだけ私が抜粋して、ここに書いてみました。「思うと言うより直感すると言う事、信念すると言ってもいいが、論理的に出来るというよりも、具体的に事実があると言う事。」
そらもう論理的にはいうならば理論的には、どんなにでも説かれるんですけれどもね。そげん知っておらんならおかげもそれと一緒に現れなきゃならんけれども、そげな事よりか、具体的に事実があると言う事の方が本当だと言っておられる訳です。今まで教監なんかなさる方でこう言う様な表現をなさった方は、今までかってないように思いますですね。同時に始めの所の思うよりも、私はかく思うと言ったようなもんじゃ無くてね直感すると言う事はね、一つのインスピレーションです霊感です。
昨日も日田の綾部さんが、ある夫婦の方をお導きしてお参りしておりましたが、親先生毎日日参させて頂いて、修行させて貰いよる時には、こう言う様な相談にこられるとですね。そりゃこうしなさいませ、ああしなさいと言うて言いよったち。直感した事をそのまま言うておかげ頂きよったて。所がこの頃はそれが何て言うですか、言えなくなったと言われるわけですね。
それでとにかこの方はお寺のお坊んさんです。その夫婦の方のご相談を受けられて、お導きして見えられたんです。大変具体的な御理解を頂かれて、安心して帰られましたけれども。所謂こちらの信心の信心修行が、本当に出来ておる時にはですね、閃くものが違うんです。只思うと言う様な漠然としたもんじゃないんです。こりゃ右が本当だとこりゃ左が本当だと。いちいちここへ参って、お取次ぎを頂かんならんと言う様な事ではなくてです。自分の直感がそのまま一つの信念ともなって、それがおかげを呼ぶんです。
私は和田さんのお取次ぎをさせて頂いた時も、やっぱそうでした。病院から電話がかっていわゆる子供ば手足切って出さんならんと言う様な事を聞いてから、そげなこつ言うたるなら、連れて帰って来いと。私はそれを聞い時の直感なんです。こりゃ純神様だけでおかげ頂かにゃいけんと直感したんです。子を産むはわが力で産むと思うな、みな神の恵む所であると言う様な御教えを、知っておるというか思うと言う様な事では、おかげにならんです。それを信念すると言う事なんです。
そこにです私は金光大神は形がのうなったら、来てくれという所に行ってやる。そういう直感そういう信念を以って、金光大神お願いしますと言わなければ、来て働いて下さるという。来ては下さっても働きにならないです。働きを現わすのは私共の信の力です。そういう教監の元にですから、これは八代という布教部長の先生が、発言しておられることの中に、教会というものを、一つの信念共同体、教会というものは、一つの信念共同体だとこう言っておられます。
次にはね、運命共同体とも言っておられる。私は素晴らしい言葉だと思うんです。例えば、合楽教会のご信心の皆さんがです、こりゃもう信念共同体なんです、全部が。いわば、だからこそ、打って一丸になれるんです。私が最近、皆さんに聞いて頂くように、合楽示現活動といったような、それこそ、神様の尊い働きが、合楽に始まろうとしておる。ためには合楽の信者、信奉者私を中心としてです。今の信念共同体と言う事にならなければ、打って一丸と言う事にならんのです。
次にはですね運命共同体と言う事を言っておられます。私はこの意味はよく分かりませんけれどもです、親先生と共にと言う事なんです。運命を共にすると言う事なんです。いうならば合楽の信者信奉者が、みんな打って一丸になると言うたり、運命共同体運命を共にする。合楽を共にする合楽の場合は、それが大体出来て来てるんです。出来て来てるからいつの場合でもです。
例えばもう並べて、今の合楽に御縁を頂いておる人達は、先ずは極楽に行っておるんだと皆んなが、そこん所を一つ極楽にあるという確認をせよと言う様な事なんかは、ここんとこの精神がなからなければ、言える事でも、また皆さんも付いちゃこれるこっじゃないです。ほんなこと言われてみると、その日暮しじゃあるばってん、家は極楽たいと言う事になって来ないのです。
いわゆる信念共同体であると同時に、運命共同体で無からなければならない。でなかったら教会が例えばほんなら、世界真の平和と言った様な大変な大きな問題に、取り組むと言う事をとても一人二人の力でよりも、合楽全体が打って一丸になって火の玉のようになって、所謂光の輪を広げていこう光輪である。合楽のいわば示現活動に参画させて頂こうと。それが輪は輪を呼んで、大きな働きに、いわば波紋を広げていいく。世の中から、悪というものを無くして行こう善にして行こう。
世の中から嘘というものを無くして行こう、真にして行こう。世の中全体をそれこそ麗しいものにして行こう。見苦しい、醜態ではなくて、美しいものにして行こう。いわゆる、真善美の世界を、愈々広げていこうとそれが今、合楽の願いです。自分の目的を完遂する事の為に、自分の目的を貫かせて頂くために、その邪魔なものはです。邪魔者は殺せと言った様な生き方は許せないと言う事です。そんな事があってよかろうはずがないと言う事です。それはどんなに公儀名分であっても、日本という国がです。
どんなに素晴らしい目的を掲げてです。例えば日支戦争の勃発はそれだったんです。そしてそれがああいう大きな波紋になって、世界第二次大戦というのは、世界中に戦争を巻き起こしたのは日本人です。そしてそれを自分の勝手なものです聖戦です。清い尊い聖戦とは聖、聖戦といったでしょうがあの時分。人を殺して傷つけるなんが聖戦ですか。いわゆる合楽で今言うておる、それは怪我人も出来なければ、殺す事も要らない。もうそれこそ敵も見方も一緒に助かっていけるというのが、今の合楽示現活動なんです。
光の輪を広げていこうというのです。だけどそれには示現活動と言う事には、神仏がそこに不思議な働きを示し現していくという働きなんです。それが今の合楽でなら出来ると言う事になったわけなんです。だから皆さんがです、そういう信念共同体と言う事にならなければならない。同時に運命を共にすると言う様なです。運命共同体といういうなら助かった人達の集まりの団体という事はです。これは組織というか団体というか、漠然としているが、我々にとって非常に大切なものであるという風に。
八代布教部長は言っておられますけれども。丁度今の合楽のような教会が、全国には至る所にもし出来たら、大変な事だと言う様な意味に私は解したんです。合楽全体が一つ本当に信念共同体、同時に運命共同体。親先生と共に例えば親先生が言われる通りの事をしてです。右になろうが左になろうが、生きろうが死のうが、もう親先生任せだと。もう親先生にお預けしたと。こういう信念が要るんだと言う事なんです。そういう私は信念。そこからです、思うよりも直感すると言う事という。
そのいうなら直感、行動する事に臆病な心が出ない訳です。こげなこと言うたり、こんな事したりしよったら、人が笑いだんせんだろうかと言う様なものじゃなくてです。それこそ電車の中であろうが、バスの中であろうが堂々と、合楽を説かせて貰えれる。隣に来た人は私に縁が出来たんだと、袖すりあうも多少の縁と言うぐらいだから、これはこの人にお話ささせて貰わなければと言った様なですね、信念的なものが生まれてこない。そういう場にです必ず金光大神は現れて下さる。いや現れて働いてくださる。
それはみんなが今そういう合楽示現活動と言われるような運動に、自分は参画さして下さいと言う様な願いを持っておる人達は、皆んなそいう体験を不思議な事に、自分のお話をきいて下さる事が出来るだけではなくて、どうしてこんなお話が出来るだろうかと言う様なお話が出来るというて、毎日皆さんお届けをしておられますです。そういう働きがです、金光大神がそこに来て働いて下さるわけです。来て下さっただけでなく、働きを働きとして現すためにです私共はそういう信心。
けども金光大神は、形がのうなったらと言われる。その形がのうなったらと言う事は、形がないもの見えないものですから、言うよりも直感によるほかにはないと言う事です。霊感によるより他にないと。その霊感であり直感がです。愈々磨かれに磨かれて参ります時に、神様の心を心として現わしていける様な働きも、また出来ると言う事です。世の中を真ににして行こう、善にしていこう美にしていこう。
昨日の御理解の中にも、ちょっと申しました。例えば物事を遂行していくのにです、手段を選ばないと言った様な事は許されない。そういう御理解を頂いて、吉井の波多野さんが帰られた。帰られてテレビを入れられたところが洋画の題名が、こう画面に出た。それがなんと私、昨日そこを忘れてましたけれども、野望の果てという映画の題名であったと言う事です。
例えばほんなら私共が、知ってる限りの歴史を振り返ってみてみるがいいです。例えば太閤秀吉なら太閤秀吉がです、朝鮮シナまでも攻めて、日本の国にしようとした野望がです。どのような形で哀れな結果になったかと言う事です。こりゃ太閤秀吉だけじゃありません。もう今までの過去の偉人、偉い人という人達の野望と言うものは、みんなそういう空しい物になってしまっておると言う事です。
その為にはですどんな犠牲でも、いわばそれこそ言う事を聞かんなら、殺してしまえと言う様な生き方でいったわけです。野望を完遂するためには。日本の大東和戦争を、巻き起こしてしまったのも、やっぱりそう言う事だったんです。だからねお金を儲ける事のためなら、もう人の茶碗叩き落してからでも儲けると言った様な、儲かったお金がです、絶対にお役に立つ筈はないです。
自分を滅ぼす事だけにしか役に立たんです。野望だからです。真善美の中から生まれてくるものいうならば、商売敵のその人も立ち行くなら、自分方も立ち行くと言う様な生き方をもってしての、生きかたでからでなければ、よい物本当な物は生まれて来ないと言う事です。昨日私が親子五人でここにお参りしてきた。生まれて四十日目の、いうなら不具の姿形で、いわば、この世に生まれて来た。それでもここの、こうした御ひれいが輝いておると言う事を聞いて、お参りをしてきた。
それで私が丁度この葉書を読んでおるときだったから、この話をさせて貰うてこの子は、もうこの世には、それこそ足手はバラバラにして、母体を助けるためには、そう言う事にまでなろうとした寸前にです。私の直感ですいうならば。私の霊感ですそれが引き戻した。そげな事先生が言わっしゃるごとあるなら、連れて帰って来いと私が。帰ってきて無事安産のおかげを頂いてです。
今日親先生こりゃもう、親から随分聞いておる事でしょうね。あんたは大体この世におるとじゃなかつばい。合楽の親先生のおかげで、あんたこの世に、おかげ頂いとっとじゃけんしっかり勉強して、お役に立たにゃいけんよと言う様な話を、いつも子供にして聞かせておるに違いないです。だからこの子が、本当におかげを頂いてです。十年後十五年後に、親先生宛にこうやって葉書でも出せれるようなね。
おかげを私は頂くと思う。私が今丁度それを今、お取次ぎしておるとこだったからと言うて、話した事でした。いかに金光大神が、形がのうなったら、来てくれという所に行ってやると仰せられても。来て頂いても働きを現し得なかったら、何もならんじゃないの。それには私が今日安田教監と、また八代布教部長という方のお話になっておられる一説を、皆さんに聞いて頂いた。思うと言うより、直感すると言う事。
信念すると言うてもいいが、論理的に出来るというよりも、具体的な事実があると言う事。それだけの構えをこちらに持っていなければならない。八代布教部長の談教会というものを一つの信念共同体、運命共同体助かった人が集まっている団体、是が組織というか、団体というか漠然としているが、我々にとって非常に大切なものであるという風に表現しておられる事から、私はヒントを得て今日は皆さんにお話を聞いて頂きました。
どうぞ。